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能の大成者・世阿弥(ぜあみ)は、今でこそ高い評価を得ていますが、その著書である『十六部集』が発見されたのは明治16年(1883年)。それまでは、長い間、一般のみならず、能楽師の間でもほとんど忘れられていたのです。
波乱の生涯世阿弥は、南北朝時代の1363年、大和四座の人気スターであった観阿弥の長男として生まれました。幼名を鬼夜叉、本名、元清といいます。 11歳の時、今熊野での演能で、父・観阿弥と供に獅子を舞ったことがきっかけとなり、世阿弥は一躍人気役者となります。この時、若き将軍義満に出会い、以後、世阿弥は、彼の寵童として、そば近くに召し使われることになりました。当時最高の文化人であった二条良基も世阿弥を贔屓にした一人で、「古今集」などの古典や連歌の知識を授けたといいます。 当時、新興芸術のためには、将軍や公家などのパトロンがとても重要な存在であり、将軍家の眼に留まることは、観阿弥・世阿弥親子にとっては、またとないチャンスでした。 「寵童」という身分について、自らも能を舞った白州正子は、その著書『世阿弥』の中で次のように述べています。 「男色は、当時珍しいことではなく、現代のような不健康なものでもなかったようだ。性的倒錯というよりは、主従・師弟間の愛情の煮詰まったかたちで、初々しい少年に女性的な美しさを求めるというよりは、若さと美の象徴として、男性の理想を求めたようである。僧侶の間では、仏道に入る機縁として、美しい稚児に観音の化身を見たという物語もある。」 「世阿弥は、将軍の寵愛におぼれるような人物ではなく、好奇心に富んだ利発な少年だった。書物の中でも、将軍への恩義は示しても、格別それを誇る様子はなく、無論甘えた根性などは見受けられない。」 世阿弥が20歳を少し過ぎた頃、父・観阿弥が旅興行先の駿河で亡くなります。以後、世阿弥は、名実ともに観世座のリーダーとなり、演出・主演を兼ねるシテ役者として一座を束ねていきます。演目でも、父のレパートリーなどの旧作を補綴、編曲するほか、数々の新作も手がけました。 順風満帆な人生を送る世阿弥を悩ませ続けていたのが、後継者問題でした。世阿弥にはなかなか子どもができなかったので、後継者として弟・観世四郎の子、後の音阿弥を養子に迎えました。彼は、この頃から自分の芸の伝承を考え、『風姿花伝』の執筆を開始したといわれています。これは、現在考えられているような純粋芸術論ではなく、自分の後継者たちが第一人者の地位を保ち続けるためにどうすればよいかを教える、いわばマニュアル本のような存在でした。 ところが、長年子どもができなかった世阿弥夫妻に、長男の十郎元雅、さらに七郎元能、金春禅竹(こんぱるぜんちく)の妻となる娘の3人の子どもが生まれます。一端、後継者と定めた四郎・音阿弥親子と実子・元雅の間で、世阿弥は苦悩しますが、応永25年(1418年)に全編が完結した『風姿花伝』は、実子元雅に相伝しています。 将軍・義満に愛された世阿弥でしたが、年月を経るにつれ、この関係も変わっていきました。義満は、晩年、世阿弥のライバルである能役者・犬王を寵愛し、「猿楽の第一人者は道阿弥(犬王)である」とランク付けしたのでした。しかし、義満が病気のため急死し、禅に通じた文化人義持が次の将軍となると、道阿弥に替わり田楽の増阿弥が寵愛を受けるようになります。 正長元年(1428年)、義持が死に、6代将軍義教が後継となります。将軍即位の盛大な猿楽公演で演者をつとめたのは、世阿弥ではなく養子・音阿弥でした。こうして音阿弥の時代が到来し、観世座は、主流の音阿弥派と、反主流の世阿弥・元雅派に分裂していきます。 この頃、将来に絶望した為か、次男の元能は、出家してしまいます。さらに2年後、長男・元雅も旅興行の伊勢で、30代前半の若さで客死してしまいます。 後継者・元雅を失った世阿弥の最後の心のよりどころは、娘婿の金春禅竹であったようです。最晩年の世阿弥は、芸論など自分が作り上げた「思想としての能」をこの禅竹に伝えました。 そんな中、世阿弥に更なる試練が訪れます。永享6年(1434年)、72歳の世阿弥は突然、都からの追放を言い渡され、佐渡に配流されます。ことの理由は、はっきりしていません。世阿弥が佐渡へ流されたことは禅竹に宛てた書状と佐渡紀行文「金島書」(きんとうしょ)の存在によりかろうじて解るだけで、公的記録に佐渡配流のことは一切記されていないのです。 世阿弥がいつどこで亡くなったのかは全く不明です。観世家の伝承では嘉吉3年(1443年)のこととされており、それによれば享年81歳であったことになります。おそらく佐渡で最期を迎えたのではないかと言われています。 |免責事項|お問い合わせ|リンク許可|
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