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能楽名人列伝

金剛唯一(右近氏成)(1815年〜1884年)

激動の時代を駆け抜けた創意の人

金剛唯一(ただいち)は、能「土蜘蛛」で、後シテ・土蜘蛛の精が夥しい糸を投げかける“千筋之伝”の演出を創ったことでよく知られている。その一方、梅若実や宝生九郎らと比べるとあまり取り上げられないが、幕末から維新にかけて能楽の灯を継いだ大変な功労者のひとりである。維新の頃は、東京・麻布の飯倉に能舞台を持っていた。そこを拠点に、彼は息子の金剛泰一郎とともに演能に励んだ。存亡の危機にあった時代に、他流の能楽師たちにも演能の機会を設け、観世清孝、宝生九郎、梅若実らも度々この舞台に立った。唯一の孫、金剛右京の伝えるところによれば、観世宗家の観世清孝と大変仲が良かったらしい。頻繁に遊びにきた観世清孝とは、決まって酒宴の卓を囲み、芸の話に興じていたという。

金剛唯一の生年は文化十二年(1815年)で、幼名は鈴之助といった。後に右近氏成(うじしげ)と称し、唯一と名乗ったのは、明治維新後であった。彼の幼少時代、幕末はまだ見えず、天保の改革で能楽師も厳しく奢侈を戒められた時代はあったものの、将軍家の能支援は衰えていなかった。演能の催しは盛んで、各流の能楽師は生活も安定し、一様に芸に励んでいたようである。そのような環境の中、唯一も確かな芸を確立し、順調に坂戸金剛の第二十二世宗家を継いだ。

嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航し、いよいよ風雲急を告げる時代の色が鮮明となる。この頃の金剛唯一は、流儀、ひいては能の世界に新風を吹き込む多彩な演出の創造に力を注ぐ。彼は、元来が大変身軽で器用、研究心に富み、かつ創意工夫の才に恵まれていたといわれており、持てる能力を発揮して、実際の演能で次々と新機軸を打ち出した。安政二年(1855年)には、江戸城本丸で催された能に出た金剛唯一は、例の「土蜘蛛」で初めて千筋の糸を投げた。舞台上が真っ白になったと、人々を驚かせ、大変評判になった。このほか「小鍛冶」の“白頭”をはじめ、数々の小書の特殊演出をものにした。41歳で「桧垣」を舞い、将軍家から鳩杖を賜っている。

千筋の糸の演出はその後、各流に取り入れられ、今ではすっかり定着している。本家本元の、金剛家“千筋之伝”は人気が高く、明治以降の能の催しでも、唯一や息子の泰一郎、孫の右京らによって、しばしば演じられた。歌舞伎でも五代目尾上菊五郎の手になる同様の演出があるが、それも金剛家の“千筋之伝”を見よう見まねで始めたものである。巷間に尾上菊五郎に直接指導したというような話も伝えられているが、これは間違いで、真相は、菊五郎が金剛流の演能を観にきて、楽屋に挨拶に訪れたという話に尾鰭がついたもののようだ。

金剛唯一は、面打ちに関しても相当な腕を持っていた。坂戸金剛家では代々面を打ち、名手を生み出して傑出した面が残されている。唯一もその流れをしっかり汲んで、面を打った。ほかに長刀なども製作しているから、木工技術に秀でていたのだろう。「土蜘蛛」の後シテに使う面もみずから打った。庭で捕まえた蜘蛛を天眼鏡で観察しながら打った面を、“蜘蛛癋見”と名づけたというエピソードもある。残念ながら、その面は火災のために灰燼に帰し、今見ることはできない。また国学に長じ、神社の神職を勤めるなど、多才にして多彩な顔を持っていた。

維新後、すでに老境に差し掛かっていたが、唯一はさらに演能に励んだ。一日に五番立てすべてのシテを務めるという、現代では見られない番組をもこなしている。明治十七年(1884年)に没するまで、非常に多くの能を舞った。明治十一年(1878年)の青山大宮御所の舞台開きで「翁」「養老」を勤めるなど、大舞台では欠かせない存在であった。しかしその同じ頃、移築した新舞台、装束、面等の焼失に見舞われた。この舞台焼失をきっかけに、後継とされた泰一郎は精神的に患い、唯一没後のわずか3年後に亡くなっている。その後に、孫の右京も多大な苦労を強いられることとなる。金剛家にとっては、何とも悲運な罹災であった。後に残る評価の記録が少ないのは、そのためかも知れない。本来、その功労は、もっと讃えられてもよいだろう。


【参考文献】

 

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