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能を支える人びと


「能面を打つ」とは、心を造形すること:髙津紘一
撮影:森田拾史郎

 あるときは涙の表情を見せ、またあるときは喜びの笑顔を見せる。あらゆる感情、思いをふくよかに畳み込んだ、不思議な顔――能面。
 その能面の作られる現場が、伊豆半島の海を見下ろす山の中腹にあった。能面師・髙津紘一さんの工房である。師匠をもつことなく、独学で面打ちを学んだ髙津さんは今、当代一流の能面師として、多くの能楽師から高く評価され、多くの作品が、日々の舞台で生かされている。
 ひたすら能面と向き合う日々を送ってきた髙津さんから、苦労と工夫を重ねた修業時代のお話とともに、能と能面にかける、深い思いの込められた言葉をいただいた。

→ 第1部 修行のあゆみ
→ 第2部 能面への思い
→ 第3部 能面工房にて

第1部 修行のあゆみ

面打ち修業の歩みを辿って

能面に出会って人生が変わった

能面師 髙津紘一
撮影:森田拾史郎

──(編集部)能面を打つ世界に入られたきっかけからお伺いします。

髙津 僕は、何か「もの」に出会うことによって、人生の道が変わるんだな、ということをつくづく実感しています。

もともと絵が好きだったんですよ。中学、高校と美術部に籍を置き、油絵に非常に魅力を感じて、できればその道に進もうと思っていました。昭和30年代の前半ですが、当時私は平塚に住んでいました。たまたま高校の美術の先生が京都出身で、夏休みに先生の家を宿に、1週間ほど、日本美術をテーマに色々な場所を巡って、見学する機会を設けてくださったんです。その時、最後の日に、おもしろいものがあるからと、先生のご親戚の宇治茶の老舗に連れていってもらったんです。そこで、見せていただいたのが能面だったんですよ。そこで、大変感動しましてね。

──初めてご覧になったんですか?

髙津 はい。女面でしたが、知識が全然ありませんから、当時はわかりませんでした。美術の本で見た程度の知識しかなかったんです。実際に目の当たりにしたとき、これは一体何だろうという思いがむくむくと立って、忘れることができなくなりました。

──どこにどうひかれたのでしょうか?

髙津 なかなか言葉で表現できません。一体これは何なんだ、という感覚でした。8人くらいで行ったんですけど、興味をもったのはふたりだけでした。僕が興味をもてたのは、小さい頃から造形的なものづくりが好きだったことも、関係があるかもしれません。見て、何も感じない人もいると思いますが、たまたま僕は印象的な出会いがあって、今日まで、続いているわけです。

家出して、心もとない独学の道へ

──実際にこの道に入られた頃の状況をお聞かせください。

髙津 高校卒業の頃には、この道に入りたいと思っていたんですが、当時のことですから、賛成する人もいない。友達や親など、周囲も絵描きならピンとくるけれど、能となると異質の世界で「何をいっているんだ、そういう人生を選ぶなんて、何を考えているんだ」という雰囲気でした。でも何年か考えた末、一途な思いで家を出る決心をしました。能面に接する機会もない関東で学ぶのは無理だと思い、アルバイトで密かに資金を蓄えて、京都の、例の先生のご親戚の伝手を頼ることにしました。

──京都では、師匠について学ばれたんですか?

髙津 能面師がいても、今と違い、素人がいきなり行って入門することは難しかった。僕の場合は面打ちを学ぶ道筋がなかったんです。でも「面を見ること」が一番の勉強で、京都をはじめ関西には、そういうチャンスがあったわけですね。時代物の面を見て、自分なりに感じ取ったものを再現していくことを繰り返していきました。能面を打つのに、今は型紙を使いますよね。でもその当時は、型紙など想像もつきませんでした。

とにかく鑿(のみ)を使って作ってみるんですが、初めは寸法より大きい物になってしまったり。規格があることを、教えてくれる人が誰もいないわけですからね。アルバイトをして生活資金を稼ぎながら、手探りでやっていました。

気が遠くなるような修業が始まる

能面師 髙津紘一
撮影:森田拾史郎

──見よう見まねの独学で始められたわけですか。

髙津 「木から彫る」のは誰でもわかりますよね。でも、どういう処方で彩色をしていくのかが難しい。初めは膠(にかわ)もわからずに、ニカワって何だろう、と勉強するわけですよ。膠を調べ終えると、今度は胡粉(ごふん)がわからない。これは何だろう、と調べ始める。

──まるで大きな辞典を1ページずつめくるような……。

髙津 体験してみるしかないんですよ。膠は、接着剤だとわかりました。それと胡粉を調合して塗り上げるのですが、両者をどのくらいの水で溶いていいのか、量すらわからない。膠はカチカチのものから溶いていきますが、接着剤だから、強いほうがいいだろうと思い、はじめは水あめのようなものを作ってしまうんですよ。でも、それだとまずいんですね。

膠を何べん塗ってもうまくいかない、うまくきれいに表情がでてこない、肌がガタガタになってしまう。昔の面は、どうやってあんなふうにピタっとできているんだろう。やはり調合から試行錯誤して考えていくしかない。面を完成させるにはほど遠く、その前の、基礎の基礎から、学んでいったんです。

日々の格闘は回り道。でも確かな道だった

──「習うより慣れろ」。まさに「体得」そのものですね。

髙津 日々の取り組みが、得難い経験になりました。今、僕は、能面制作を教室で教えています。そこでは、技術を教わればすぐできるだろうという雰囲気が強いんですよ。でも、手取り足取り教えたとしても、すぐには同じようにはできません。長年培った技術は、一朝一夕で身につけられるものじゃない。たとえば、旋盤工も、手の感覚だけで加工の微細な部分までわかるじゃないですか。それはすごいことで、長い経験を経なければ得られないでしょう。技術は、今日見て今日できるものじゃない。経験を積み重ね、微妙な違いまで感じ取れるようになることが大切で、それが大変なことなんですね。

僕の場合は、師匠がいなくて、遠回りしたんですけれども、その分、自分のなかに蓄える経験値は高かったと思います。上からの指示に従うだけでは得られないような、強烈な経験ができたんじゃないでしょうか。日々、自分が作ったものと格闘してきた感じです。

仏像の花びら一枚も修業のうち

──苦労された修業時代のエピソードをご紹介ください。

髙津 家出してからの修業の日々で、情けない思い、悔しい思いは、いっぱいありました。同じように能面師を志した人でも、食べていけなくてやめる人も多かった。僕は若くてひとりで、がむしゃらにやれましたが、家族もちでは無理だったでしょうね。生活の糧を得るためのアルバイトが欠かせませんでしたが、それも修行に役立つ、鑿を持つ仕事を選びました。京都には仏師が結構いましたから、その工房で働かせていただきました。花弁1枚、蓮の花びら1枚を作っていくらか収入を得るわけです。そこでは余り物の木っ端ももらえました。檜の結構いいものがもらえたりしました。当時は材料費にも事欠くような状況でしたから、有難かったですね。そこでもらった端材を使って、毎晩、真剣勝負の格闘をやるわけです。

本来、能面には適さない杉も、檜に比べると安いものでしたから、練習用に良く使いました。彫る感覚を養うためになったと思います。

舞台に使われる能面を打たなければ、意味がない

──格闘を続け、能面がある程度わかってくるまで、どのくらいかかりましたか。

髙津 頭で理解できても、深くつかむには、相当の時間がかかりました。能面を打つには、能面にだけ眼を向けていればいいわけではないんです。やはり能という物語、舞台芸術に踏み込んで勉強していかなければなりません。能面は舞台で使われないと意味がありません。能の道具であることが前提ですから、能面だけ作っていても、イメージはわかないんですよ。舞台に通って、能を何度も観ることが、とても重要です。

京都の金剛能楽堂にはよく通いました。当時は観客も少なかったのですが、皆さん優れた鑑賞眼をおもちでしたね。その人たちを前に演じますから、能楽師の取り組み方もすごかった。自分の至芸を、目の肥えた人たちに観てもらうんだ、そうやって厳しい芸を継いでいくんだ、という気迫がみなぎっていました。僕は、そういう真剣勝負の舞台で生きる能面とは何かを求めていったんです。

あと、京都という土地柄と時代の流れから、古美術、骨董の分野で、能面が表に出るときがありましたから、そういう機会を逃さず、努めて見るようにしていました。

──そういえば能面を見ることが勉強の基本になるとおっしゃいました。

髙津 能面が、収集家の間を往来する時代だったんですよ。たとえば宇治の骨董屋さんに行くと、いい面がひょいと展示されていることもありました。それをガラス越しに首っ引きで見ていたこともありました。修業で十数年はあっという間に過ぎました。

人との出会いが世界を広げていく

──能面師として、身を立てていく転機みたいなものはあったのでしょうか。

髙津 そこにもやはり「出会い」があります。初めにお世話になった宇治のお茶の老舗のご主人を含め、能面を見せていただいた多くの方々との出会いから広がっていきました。徐々に使っていただける能楽師の方々も現れ、後押ししてくださるようになりました。僕の場合、注文を受けて制作するよりも、自分の打った面をご覧いただいて、これいいじゃないかと気に入ってもらい、お使いいただくスタイルが合っています。そういうことで、縁がついて、人を通じてまた人に会う。その積み重ねで、広がったわけです。このスタイルは今も変わりません。

京都では金剛宗家とも知り合うことができ、後に丹波篠山の能楽資料館をご紹介いただき、より技術を磨く機会が広がりました。

修復を重ね、能面師として成長した

能面師 髙津紘一
撮影:森田拾史郎

──能楽資料館では、どういったことに携わったのでしょう。

髙津 この資料館は素晴らしい施設で、長年にわたってすごい面を収集されてきました。居ついたわけではなく、研究員のかたちで常時行き来し、改めて能面の勉強を専門的に行うことができました。そこでは修復も結構やったりして、今も継続的に作業しています。

修復の技術は、能面師には絶対に必要だと思います。技術があれば、いい面を見る機会も増え、後々に役立ちます。修復で依頼された優れた面の表情を何日も見ていると、イメージがどんどん膨らんでいきますね。万が一にも失敗したら、大変なことになってしまう責任の重い仕事です。僕が師匠につかずに、いろんなことを試行錯誤で繰り返したことが、思いがけず、修復に役立っています。人の見えないことが見えてくる。

──たとえばどのようなことですか。

髙津 色の見方ですね。重ね塗りで、この色の下にはこういう色があるとかがわかってくる。これは、ただ教わっただけでは、判別は無理ですよ。何度も重ね塗りを失敗して、その都度、研ぎ出して塗る。その段階でいろんなことが見えてくるわけですよ。失敗が結果的に修復にうんと役立った、っていうことです。

修復で怖いのは、「隈取り」を起こすこと。面の肌は、何百年かけて老化しています。その上に新しい素材を重ねると、古い肌が新しい膠を引っ張り、それを繰り返すと、隈取り-要するに、シミが広がって模様ができてしまう。この膠の使い方が、微妙なんですよ。

日々、能面制作に打ち込む

──こちらの工房へは、いつ頃移ってきたんですか。

髙津 45歳頃に平塚に帰ってきました。実家やその周辺で仕事をしていたんですが、街中だとなかなか仕事に打ち込めない状況もあって……。よい場所はないかと探していたところ、やはり人との出会いを経て、ここをご紹介いただけたんです。静かで周囲と離れた環境で、夜間でも心置きなく仕事に打ち込めます。僕は仕事にかかると、入り込んで、時間など関係なくやってしまいますからね。

──仕事の引き合いはいかがですか。

髙津 関東は関東でまた、観世元昭氏などの知遇を得て、おかげさまで継続的に仕事はできています。市民講座で能面制作を教えることにも取り組んでいます。とはいえ多くの収入を得る性質の職ではありません。正直、やっていけるかどうかという状況です。美術や他の工芸分野だと、苦労して認められれば、それなりのステイタスを得られますが、能面はあくまでも道具ですからね。高額で販売するようなものじゃない。でも最近インターネットなどで、勝手に自己評価して、面を高く売っている人がいるらしいですね。それをわからない人が買っていく。その面が使えるかどうかはわかりませんけれど。

あまりに面が高額だと、若手能楽師は手を出せなくて、借りてすませるようになる。それがいけないとは言いませんが、借り物だけですませるのは、芸もそこまで深まらないんじゃないかとも思うんです。自分の手元で、大事な道具として能面を使い込めば使い込むほど、深まるものもあると思います。実際に使える面として、そろえてもらいながら、その上で収入も上がる環境ができるといいんですけど。Next

2011年11月2日、髙津紘一さんが亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りいたします。



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