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ESSAY「わたしと能」

幼い頃から能に接していたり、あるいは大人になってから能に魅せられたり、と、十人十色の能とのご縁。
さまざまなジャンルの著名人たちが能との関わりや魅力を綴るエッセイ「わたしと能」。

佐藤三千彦(イラストレーター)

イラスト:タケウマ
絵:タケウマ

あわただしい時代の中で、ふと自分を見失いそうになった時、本箱の硝子戸を開く。そして古びた本の1ページを求めて読んでみる。それから、おもむろに自身の記憶や存在理由の影をそこに見つけて、それなりに胸を張り、また前進しようと力を満たすことがある。

古びた本とは、1978年に発刊された平凡社の『別冊太陽 No.25/能』のことである。中に鈴木忠志という演出家の人が書かれた「ブレーキの暴力」という記事があって、その文章とともに掲載されている早稲田小劇場の小さな写真を見るのが好きなのだ。

写真は白装束の白石加代子さんが額に傷を負って三白眼でヨロリとバランスをとりながら、タタミ半畳の上へ立って、能登の輪島市に伝わる御陣乗太鼓のあわれな仮面被りの海藻のような黒髪をだらりと垂らし、日本刀を傍で構えている男の腰つきを不安定なまでに弱らせている。双方ともに、今では写真と記事がわたしの中で一体となっていて、そこのページを開いただけでもう満足なのだ。

 

“静止していても、絶対的速度をもつ能楽芸術”

 

「ブレーキの暴力」、いい言葉だと思う。
ポーランドの演出家イェジュィ・グロトフスキ氏が来日した折、鈴木忠志さんが青山にある銕仙会へ氏を案内し、観世寿夫さんの稽古風景をご覧になった時に氏がもらした言葉とのことだった。「肉体的生理的な苦痛や抑制のまま、空気を切り裂くように暴力的にそこに存在する。しかも、静止して」。これがグロトフスキ氏の言うところのブレーキの暴力なのである。 

勿論、わたしがそんなことを早くから気づいていた訳ではない。ポール・ヴィリリオの著書『純粋戦争』や『戦争と映画』を、なんとはなしに購入しておいた後に見つけたNTT出版の「Inter Communication」の中で、彼が唱えた「ドロムス/速度革命」という記事を読んでからである。それによると、「ファラオのミイラマスクの上には鞭と鉤棒がクロスしていて、鞭は伝令の歩みを加速させ、鉤は戦車を引く馬をつなぎ止め、ブレーキをかけるためのものであって、そのことは一切の政治がもたざるをえない速度体制的性格を示している」……。これを読んだ時に、愕然として「ブレーキの暴力」を思い出し、「速度学」と言う“操縦”の美学を学んだ。

あらゆるものはたとえ静止していたとしても、絶対的速度を所有していなければならない。手近な見本として、能楽があることを改めて知ったのだった。このようにして能楽を見てみると、いままで見えなかった事物の有様がまざまざと見えた。

 

“「ブレーキの暴力」が存在しない舞台”

 

能面が少しでも下がり過ぎていると顎が隠れ、人間の存在感が弱くなる。面(オモテ)の力が勝ったぶん、人の生命力が萎えて退屈な舞台となる。あるいは、装束の合せ目がひどく日常的であったり、咽喉と胸と顎と面とのあいだにある半月球の空間が散漫であったり、鬘と面の毛筋がひどくズレていて緊張感が抜けていたりと、まあ見るほうは勝手気ままであるが、そうした事のいちいちがとても大切なことであることを自ずから知るようになった。

このことはシテやワキばかりでなく、囃子方の鳴物がペラペラポコポコという場合もある。また、地謡座の腰付きが妙にべっちゃりと踵へ吸いついてしまっていて、昨晩どこかで呑み過ぎたか、節はそろっていても情景や心情がまったく無くて気が抜けている場合もある。これは意地悪で言っているのではなく、時にそういうことはあるからだ。

 

“コンダクターのように、隅々にまで気を充満させて”

 

ところで、能の醍醐味を知ったのはなんといっても大鼓方の大倉正之助氏の存在が大きい。彼の居ずまいはたえず堂々としていて、馬革をピンと張りつめた大鼓を素手打ち(普通は指革をつける)しながら、「イヨォ〜ロロロロ〜」「カーン!」と、振り絞った掛け声で人間界をずんと越えたものを見せてくれた。

彼は揚幕の辺りをそれとなく視界へ入れて、見るとも見ざるの構えでシテ方の登場を充分に引き付けながら、まるでコンダクターのように、隅々にまで気を充満させている。それでいて、水平にのばされた素手打ちの右手がだんだん加速するほどに、野を駆ける獣の脚となってゆく。わたしはこんなにも真っすぐな才能を持った大鼓方をそれまで見たことがなかった。

毛穴は無限に開いて、鳥肌が全身に立ったことを今も思い出すが、彼の居場所はいつでも漆塗りの床几へ圧しとどまったたままだ。このブレーキの暴力とアクセルの全開による緩急合意が能楽堂全体になされた時、観客である我々はいとも簡単に夢幻地獄や極楽へと催眠者のごとくに誘われてしまう。

だが、この事は滅多にあってはならない危険な賭なのだろう。たった一人のために調和やバランスを欠いてはならないからだ。しかし、わたしはそのような夢まぼろしを以前に見たことがあったような気がする。

 

“見えないはずの井戸に水月を見る”

 

時が流れてもいまだ深く印象に残っている演目に、観世暁夫(九世銕之亟)氏がシテを演じた「井筒」がある。その日は地謡座の唱人たちもシテやワキにつぐ名脇役者であった。シテ方のほんのわずかな動きで、彼らの着ていた無数の白紋付までもが見事にちらちらと輝く月光となって、見えないはずの井戸の中の水月に見えたことがある。

また、八世銕之亟氏の「朝長」の動きは恐いぐらいに良かった。まるで齣落としされた映画を見ているような激しい存在が幾重にも残像したまま、個々の幻影が重層的に交錯しながら電撃武者のように震えていたのを、いまでもはっきりと思い出せるからだ。 

舞台とはすべからく調和のためだとはいえ、鈍いものを客がたらたら見せられてはかなわない。あってはならない危険な賭でも、わたしはいつでも“其処”こそを見てみたいのだ。

 

(2008年6月)

佐藤三千彦 佐藤三千彦 プロフィール
1947年三重県生まれ。朝日広告賞・表現技術賞受賞。第3回フィンランド・ポスタービエンナーレ展入選。第8回ワルシャワ国際ビエンナーレ展特別賞受賞。1999年、銕仙会の九世観世銕之亟氏らとともに「21世紀日韓文化交流委員会」能・狂言の公演スタッフとして朝鮮半島を専用バスにて巡回。著作に詩画集『白ワイン黒ワイン』、書画文集『山頭火さん』ブログにて長編散文詩「トランスシルヴァナイト」を公開中。
ホームページ:http://www.michihico.com/

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